第92号
通信「巻頭言」
みんなで生きる
4人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして、穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 マルコによる福音書2章3節〜5節
理事長 木ノ内 一雄
主イエスの伝道はガリラヤを中心としたものでしたが、その拠点はガリラヤ湖の北にある町カファルナウムでした。主イエスのところに大勢の群衆が御言葉を聞くため、また病気を癒してもらうために集まって来ました。その中に中風の人を運んで来た4人の男がいました。ところが家は人でいっぱいだったので彼らは屋根に上り、穴をあけ病人をつり降ろしました。わたしたちから見ると、考えられない事ですが、当時の、いや今でも多くの国では家の造りは驚くほど簡単で、土をこねて壁を作り、屋根は木と枝を敷き、土を上に被せるだけのところがあります。雨期には雨漏りがし、また草も生えますが、さほど支障なく生活する事が出来るのです。ものを置いたり休んだり、また時にそこで祈ったりもします。屋上に穴をあけても簡単に修復できるのです。
わたしたちが不思議に思うのは、主イエスは連れて来た4人の信仰を見て中風の人を癒されたということです。なぜ中風の人の信仰は見なかったのでしょうか。その訳は、わたしたちは一人で生きているのではなく、人との繋がりの中で生きているということにあります。例えば、夫婦の一人が病めばもう一人も苦しみます。家族の一人が病めば、家族全員が苦しみます。同じことは教会にも、社会にも言えます。30年前、西カリマンタンのスラム街を訪問した時、そこに住む人々の悲惨な生活を見て涙が出ました。また数年前アフリカを訪問した時も同じように心が痛みました。わたしたち人間は連帯性を持っているのです。一人が苦しめば他の人も苦しみ、一人が喜べば他の人も嬉しくなります。
神はわたしたちの罪を赦すために人となり、十字架に付かれました。人の罪を赦すためにはご自身が人にならなければなりませんでした。人間が犯した罪は人間でなければ購うことは出来ないからです。同時にそのお方は神でなければなりませんでした。聖なる神だけが人の罪を赦すことが出来るからです。主イエスの死によって初めて神との霊的な交わりは回復されたのです。中風の人を連れて来た4人は中風の人と連帯して生きているのです。わたしたちは家族と、また世界の人たちと連帯して生きているのであって、自分だけが孤立して生きている訳ではありません。わたしたちは「みんなで生きる」のです。
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