(通信「巻頭言」 第91号より)
マルコによる福音書10章13節~16節
村の一家(ガンビア) |
主イエスの時代も同様でした。主イエスに子供たちを祝福してもらうのは意味があったのです。ところが弟子たちは子供たちを連れて来た人々を叱ったのです。なぜなのでしょう。多分、弟子たちは主イエスにエルサレムに上り、神の国を樹立してもらうつもりだったからです。主イエスは王になり、自分たちも支配者として重責を担うつもりでした。神の国はエルサレムに始まり、近郊の国々、そして世界の果てにまで及ぶのです。大切な使命を帯びているこのお方をそのようなことで煩わせてはならなかったのでしょう。
しかし、主イエスはそのような弟子たちを見て憤られました。悲しまれ、心を痛められたのです。なぜなら、神である主イエスがこの世に来られたのは一人で生きることのできない子供、生きる意味や価値を見出すことのできない孤独な者や病人、老人、罪人のためだったからです。そのような人を主イエスは招かれ「抱き上げ、手を置いて祝福され」たのです。
弟子たちの夢は結局、砕かれてしまいました。主イエスは神の力で戦うことはなされず、民と指導者に裁かれ十字架に付けられたからです。しかし、主イエスは三日目に墓から甦られました。弟子たちは神の使命に立つ強い者でしたが、主イエスの死後、弱く、無価値な者となったのです。その弟子たちの心に主イエスは霊となって宿られました。それが五旬節(ペンテコステ)の出来事でした。主イエスは弱く無力なわたしたちの心に宿るのです。医療の手が及ばないアフリカの子供たちを憐れみ、共におられ、祝福されるのです。わたしたちの本当の幸せは主イエスが共にいてくださる、ということなのです。
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