(通信「巻頭言」第89号より)
ヨハネによる福音書14章1節
ガンビアの海岸にて |
主イエスは弟子たちに「心を騒がせるな」と言われました。主イエスはもうすぐ十字架につけられることを御存知でした。それは御自身の死の苦しみに加え、全人類の罪を負って神の裁きを受けるという苦しみでした。しかし、それはわたしたちの罪が赦される唯一の道で、そのために主イエスは天の父のもとからこの世に遣わされて来たのです。それに対し、弟子たちは主イエスはエルサレムで王となり、ローマ帝国の頸木からユダヤを解放し、神の国を建てられると信じていました。それが当時の一般的なメシア理解だったのです。彼らは主イエスと一緒に神の国を治めるつもりでした。しかし、弟子たちの夢は砕かれ、命は危険にさらされ、深い挫折を味わうことになるのです。わたしたちもしばしば神がおられるのならなぜこの世を神の国となされないのか、なぜこのような苦難や悲しみが自分の身に及ぶのかと不思議に思うのです。そのような時、全てが信じられなくなり、苦しみもがくのです。
主イエスはそのような弟子たちに「神を信じなさい」と言われました。神はこの世を創られました。創造とは無から有を生み出すことです。その神に、不可能なことはありません。主イエスの十字架は無力のように見えますが、そこに神の力が現われているのです。そして、神は十字架で死んだ主イエスを三日目に甦らせました。神は命であって、神の前に死はないのです。
主イエスは「わたしをも信じなさい」と言われました。死から復活された主イエスこそ「この世を歩かれた神」なのです。主イエスは今も生きておられ、信じる者に御自身の霊を与えられます。わたしたちの心には空白感がありますが、この心の苦しみ、悩みを癒してくださるのは、神だけであって、主イエスの霊によって心を満たされる以外にはありません。主イエスの十字架はこの世の終わりでしたが、永遠の命の始まりでもありました。わたしたちの苦しみ、悲しみは主イエスの十字架へと導くものです。それによって主イエスと共に永遠の命に生きるためなのです。過ぎ去りゆくこの世と、永遠の命とでは比較できません。多くの人が苦しみ、悩んでいるこの時、主イエスの言葉はわたしたちの心に喜びと平安をもたらします。
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