クリスチャンパートナーズの活動

クリスチャン パートナーズ(英語名、Partners International Japan)は世界中で様々な宣教活動をしているPartners International の一員として1984年に発足しました。わたしたちはボランティア活動としてインドネシア、西カリマンタンの児童や学生への学費援助及びガーナへの必要な自立支援を行っています。そのための援助金を現地に送っていますが、ご協力いただければ幸いです。詳しくはホームページ、あるいは下記にご連絡頂ければ幸いです。
事務局 〒422-8053 静岡県静岡市駿河区西中原2-7-63-111 竹澤三佳子方
郵便振替口座 00150-0-134994  加入者名 クリスチャンパートナーズ
E-mail sunflower818@hw.tnc.ne.jp
理事長 木ノ内 一雄
理 事 岩崎 俊夫 神田 道彦 木ノ内 和美 竹澤 三佳子 鳥海百合子 宮沢 玲子
監査役 奈須 輝美

2012年10月21日日曜日

アフリカを旅して

2012年秋季号 QK88

季刊「教会」からの転載

ガンビアの女の子
昨年(2011年)の9月、ガーナ、ガンビア、セネガルを訪問しました。アフリカに行くのは初めてでした。この旅行はわたしが関係するクリスチャンパートナーズの働きの一環なので、その会と活動についても初めに少し触れておきたいと思います。
 1984年、まだ外資系の会社に勤めていた頃でした。パートナーズインターナショナル(以後、PIと略す)という米国の海外援助団体の代表が来日し、関係者が何人か集まりました。それを機にその年の12月に日本のPI(クリスチャンパートナーズ)が発足しました。
 理事会で具体的な援助活動を模索している時に米国出張があり、PIの事務所に立ち寄ると、スポンサー・ア・チャイルド(SAC)を勧められました。精神里親を募り途上国の子供の学費を援助するというものでした。理事会で承認され、PIシンガポールからもインドネシア、西カリマンタン西海岸にあるポンティアナックの子供たちの写真が送られて来ました。
 1986年に初めて現地を訪問しました。その時、極めて不衛生な環境の下で人々が生活していることに衝撃を受けました。湿地帯にバラックが広がり、木で作った通路の上で子供たちが裸で遊んでいました。夜は薄暗いランプの生活、そして淀んで汚い水路で洗濯し、そこで体も洗っていました。その時の体験がこの活動の原点になりました。しかし、八年後、神学校に入ったのを機に理事を辞めさせて頂きました。ところが、6年前、理事長になってほしいと頼まれ、再びこの活動をすることになりました。
 その頃、日本で農業研修を終えて帰国したガーナの牧師からプロジェクト支援の要請がありました。求めに応じて数度、援助金を送ったのですが、本格的援助は一度現地を見てからにした方がよいということになっていました。昨年、PI米国代表のアフリカ旅行に同行が許され、現地を見る機会が与えられました。
 ガーナは英語が公用語です。貧しい国ですが、政治的には比較的安定しており、治安も悪くありません。南部と北部に大きく分かれ、北部は南部に比べて開発が進んでいません。今回、訪問したのは北部でした。ガンビアとセネガルはフランス語が公用語です。都市部は西欧的ですが、貧富の差は大きく、都市の一部はスラム化していました。農村部は三カ国とも大きな違いはないように思えました。
 都市にある教会は欧米の教会と特に大きな違いはありませんでした。ただ非常に解放的で、礼拝ではドラム等の楽器を用い、歌も多く取り入れていました。農村部の教会は土着化し、ドラムの他、歌、踊りと賑やかでした。
 小学校は町では目にしましたが、村の中にはあまり見かけられませんでした。インドを訪ねた時は、村々で子供たちが大きな木の下で先生を囲んで学んでいたのを思い出し、その違いを考えさせられました。
 村に入ると、大勢の人たちが集まり、子供たちが走って来ました。日本では水道や電気、ガスのない生活は考えられません。しかし、ここではそれが現実でした。家は土の壁が外と内とを隔てているだけでした。毎日水で身体を洗っているのでしょうか。土で汚れたままの子供たちや皮膚がところどころ白っぽく変わっている子もいました。紙も鉛筆もなく本も見当たりませんでした。食事は穀物を臼でつき、その粉を練り、右手でちぎって口にしていました。村と村は遠く離れて孤立し、医者も看護師もいませんでした。昔から続いている生活がそこにありました。
 村では児童養護施設も見ましたが、七、八人の子供を収容できる薄暗い部屋が幾つかあるだけでした。隅に数枚の汚れたマットがあり、夜、敷いて寝るのですが、上に掛けるものも蚊帳もなく、黄熱病、コレラ、マラリヤなどの熱帯地方特有の病気で死ぬ人が多いと聞き、そこにいた子供たちのことが気がかりでした。そのような環境にも拘らず、彼らは一様に明るく、目がキラキラ輝いていて屈託がありませんでした。
 どこの村にも電波塔や簡単な自家発電機があり、携帯電波が通じました。そのため携帯電話を持っている人もいました。村にはテレビも数台ですがありました。誰とでも話が出来、また世界の出来事が自分たちのところにも入って来る、それは革命的な出来事に違いありません。自転車やオートバイ、自動車があれば隣の村や町に行くことが出来ます。広い世界を知って村人たちは自分たちの置かれている状況をどのように考えているでしょうか。
 わたしたちにとっては車が村々を回る唯一の交通機関でした。丁度、雨季の終わりの時期でした。水が溜まっている悪路からなお奥地に入る時、二台に分乗していた車を一台にすることになりました。その時、彼らはドイツ車ではなくランドクルーザーを選びました。トヨタ車に対する人々の信頼は相当なものでした。そして車だけでなく、日本はすべてにおいて進んだ国だと心から思っているようでした。
 わたしはと言えば遠いアフリカに来て、その圧倒的な貧しさを目にして気が引けていました。わたしたちの会が出来るわずかな援助が彼らにとって何になるのでしょうか。大海の一滴にもなりません。これがかつて西カリマンタンを訪れた時との大きな違いでした。そのことを率直に伝えますと、「援助だけを望んでいる訳ではなく、日本に繋がっていたいのだ」と言いました。日本と日本人の存在は彼らに勇気を与えるというのです。アジアの国々を回った時もそうでしたが、アフリカの人にとっても日本は特別な国でした。資源のない貧しい国だった日本、戦後の焦土から立ちあがり、今回の津波からも立ち上がることのできる国、それは彼らの心の支えになる国でした。その国の人たちに祈ってもらうことで「わたしたちだって出来る」と思えるというのです。それを聞いて初めて今回の旅行の意味と目的が分かりました。そのような彼らの気持ちを少しでも受け止めていければと思いました。
 欧米の伝道には長い歴史があり、奥地にも宣教師のための宿泊施設がありました。彼らと一緒でなければこのような旅行は出来ませんでした。それに対し、日本の多くの教会は自分たちの抱えている問題だけで背一杯で、このような世界に目を向ける余裕はありません。自分たちの問題にもっと目を向けるべきだと考える人たちもいるでしょう。しかし、わたし自身、忙しい生活の中でこの会と共に歩んで来て良かったと思っています。
 主イエスは「あなたがたで、あの人たちに何か食べるものをあげなさい」と言われました(マタイ14章16節)。アジアやアフリカの人たちに重荷を覚える方がおられましたら、是非ご連絡ください。

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