クリスチャンパートナーズの活動

クリスチャン パートナーズ(英語名、Partners International Japan)は1984年からポンティアナック(インドネシア、西カリマンタン)の子どもたちへの学費援助から始めました。現在は西カリマンタンにあるATI神学校の学生、ミャンマーの恵みの家(養護施設)、ガーナ(アフリカ)の村への支援を行っています。是非、ホームページをご覧ください。事務局 〒350-1126 埼玉県川越市旭町1-19-18 日本キリスト教団川越教会 郵便振替口座 00150-0-134994  加入者名 クリスチャンパートナーズ

2008年12月10日水曜日

人生の年月は70年程度

通信第77号「巻頭言」より

人生の年月は70年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。(旧約聖書 詩篇90篇10節)

 今年もまもなくクリスマスです。近頃、特に月日が過ぎるのが早く感じられるのは、わたしだけではないと思います。
 詩編90編では神の永遠性とわたしたち人間の有限性が対比されています。わたしたちがどれほど長生きしても、死で終わるならその生は結局は空しいものとなります。詩人は人間の死には他の動物とは異なり、わたしたちの罪に対する神の怒りが伴っていると教えます。自然の死だけでも恐ろしいのに、神の裁きもあるとするなら、死はより恐ろしいものとなります。
 詩人は死の恐怖から逃れる唯一の道は神への「祈り」であると教えます。天地の創り主である神こそわたしたちの救い主だからです。そして、事実、天の父はわたしたちを死の恐れから救うために御自身の独り子、主イエスをこの世に遣わされました。このことこそクリスマスの出来事でした。主イエスはこの世で苦難を受け、十字架でわたしたちの罪を贖われました。神のわたしたちへの怒りは主イエスの命によって和らいだからです。
 クリスマスには世界中の人たちが御子イエスの誕生をお祝いします。旧約聖書の約束が成就し、神の救いが事実になったからです。永遠に生きる望みがわたしたちに与えられ、人生は死で終わりとなる空しいものではなくなったのです。御自身の命をも惜しまれないでわたしたちを救われたことによって、神の愛は明らかにされました。
 わたしたちは世界中の子供たちにこの神の愛を届けなければならないと思います。子供たちに学費を援助するわたしたちの使命もこのことを目的としています。

2008年8月25日月曜日

その実が残るように

(通信第76号「巻頭言」より)

ヨハネによる福音書15章16節~17節

 科学者アインシュタインは神について次のような疑問を投げかけています。「もしこの存在者が全能であれば、全ての人間の行動、思想、また人間の感情と希望を含む全ての出来事がこの存在者の仕業です。人間の行動と思想に対して本人の責任を問うことはどうしてあり得るのでしょうか。罰と報いを与えることによって、ある意味では神がご自分を裁くことになります。神に帰すべき善と義をこれと両立できるのでしょうか」。
 この問いは神の絶対的主権を信じる多くの教会とクリスチャンにとって大きな挑戦です。そしてこの問いは、アインシュタインによって初めて提起されたのではなく、古くからありました。神はこの天と地の造り主です。この世を保持し、歴史を支配し、わたしたち人間もまた御心のままです。
 全てが絶対者である神の御心のままにあるなら、この世の全ての悪もまた神の責任に帰することになります。アフリカの今日の多くの問題は、欧米列強が自国の都合で国境を引き、農作物を割り当て、資源を搾取したことにあると指摘されています。その責任もまた究極的に神に求められることになります。
 同時に、このような欧米諸国に代表される利己的な人たちだけでなく、アフリカに愛の手を差し伸べる多くの人がいます。これもまた人を通してなされている神の働きといえます。そして、わたしたちのガーナへの援助も僅かではあってもその一つであればと願っています。
 わたしたちは神の業やご計画の全てを理解することは出来ませんが、聖書をとおして多くのことを知らされています。神と人とを愛するその働き人の中に神の「選び」があると信じます。神の働きは永続することにその特徴があります。その働きこそ愛であって、「新しい天と新しい地」に引き継がれるものです。

2008年5月20日火曜日

わたしたちの復活

(通信第75号「巻頭言」より)

フィリピの信徒への手紙3章10節~11節

  わたしたちはこの世では限りある命を生きています。しかし、わたしたちには復活の希望があります。使徒パウロは「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と言っています。
  世界の全ての民族は何らかの宗教を信じ、死後の世界を信じているといわれます。日本でも仏教や神道で教えるように、また、漠然とではあっても、新井満さんが作曲した「千の風になって」のように、人は死んでもその魂は生き続けると考えています。プラトンの「パイドン」では、ソクラテスはあの世への霊魂の移住が順調に行きますようにと神々に祈り、この世を去りました。古代ギリシャ思想は人は肉と霊から成り、体は死んでも魂は生き続けると考えましたが、今日でもこの思想は世界中の多くの人の心をしっかりと捉えています。
  このヘレニズムに対峙するのがユダヤ人の聖書に基づく考え方であるヘブライズムです。それは人を霊、肉に分けることなく一体と考えることにあります。キリスト教もまたこのヘブライズムを受け継ぎ、死は霊の死でもあり、肉は霊と一緒に復活すると考えます。死は罪の結果であり、死という断絶があって初めて、霊肉共に神の国の住民にふさわしく創り変えられるのです。主イエスがわたしたちの罪を十字架で贖ってくださったがゆえに、この死からの復活はわたしたちの人生の目標となり、祈りとなったのです。
  アジアだけでなく、わたしたちの援助がバンマリグ牧師を通してアフリカのガーナにまで広がっていくことは本当に大きな感謝です。世界中に住むクリスチャンが神と隣人を愛し、神の国の民としてふさわしく祈りあっていきたいと思います。

2008年2月16日土曜日

足を洗う

(通信第74号「巻頭言」より)

ヨハネによる福音書13章1節~20節

 過越祭の前に、主イエスは弟子たちと食事を共にし、彼らの足を洗われました。聖書では、「食事」はしばしば霊的な交わりを意味します。主イエスは天におられる時、父なる神と聖霊とご自身との間に完全な充足がありました。「この席」から主イエスは「立ち上がり」この世に遣わされて来ました。「上着を脱ぐ」とは主イエスが天で持っていた神の栄光を脱ぎ、わたしたちと同じ人となられたということです。「足を洗う」とは奴隷の仕事であって、このようにして人々に「仕えられた」ということです。主イエスは神の力によってこの世をあるべき姿に変えようとはされず、人々に仕えられるだけの生涯でした。しかし、その言葉と生き方は「永遠の命」があることをわたしたちに教えるものでした。わたしたちをご自身が支配する「神の国」に招かれるものでした。人々は主イエスを十字架につけましたが、三日目に復活され、上着を着て再び食事の席に戻られました。主イエスは生前の約束であった聖霊をわたしたちの内に住まわせることによって永遠の命の確かなことを保証されました。主イエスは今も生きておられ、永遠の命にわたしたちを導かれるのです。
 わたしたち日本のクリスチャンパートナーズは、発展途上国に住む経済的理由によって学校に行けない小学生から大学生の学費を援助し、出来るだけ多くに教育の機会を与えることを目的にしています。教育はこの世を生きて行くための様々な機会を彼らに与えますが、同時に、わたしたちは主イエスを深く知って歩むことが出来るようになることを祈っています。
 わたしたちは対象が分からずにただ援助をするというのではなく、様々な機会を通してお互いが知り合うことが出来たらと思っています。このような通信も一つの手段です。又、子供たちの写真を送ることもです。いろいろな制約があって難しいのですが、子供たちとの人格的な交わりが生まれればと願っています。

2007年7月5日木曜日

あなたがたの神

(通信第72号「巻頭言」より)

わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる

レビ記26章12節、ヘブル書8章10節

 5月28日(月)の理事会ではアンテオケ宣教会の高橋みぐみ宣教師をお迎えしてインドネシアの現状をお伺いいたしました。先生はポンテリアナックから内陸に入ったアンジュンガン新学校で教師として働いて来られました。わたしたちクリスチャン・パートナーズも先生を通して経済的に恵まれない神学生を何人か援助して来ました。インドネシアで御言葉のために労しておられる先生のお話は、わたしたちにとって勇気づけられるものでした。
 カナンの地に飢饉が襲ったとき、ヤコブ(イスラエル)の家族70人はエジプトに下りました。それから430年後、200万から300万に増えたイスラエルの民はエジプトで奴隷となっていました。神から遣わされた預言者モーセはこの民をエジプトから導き出しました。それはこの御言葉のためでした。イスラエルの民はその後、40年間荒れ野で放浪し、約束のカナンの地に入りました。主イエスがこの世に来られたのも、この御言葉のためでした。ただしエジプトの地は「この世」で、荒野での生活は「キリスト者としての歩み」、そして約束の地は「新しい都」です(黙示録21章)。
 わたしたちにとってインドネシアの経済的に恵まれない神学生を援助できることは大きな喜びです。彼らもまたこの御言葉のために労するようになるからです。また、わたしたちのため、日本のために祈っているのを知り、感謝でした。わたしたちも高橋宣教師とインドネシアのために祈りたいと思います。

2007年2月8日木曜日

フィンリー師の訃報に接して

通信71号「巻頭言」より

 フィンリー師の召天の報に接し、悲しみを禁じ得ませんが、師の生前の祈りがわたしたちの活動の原点となっていることに深い感慨を覚えます。
 1984年6月に来日された時、知人らが集まり歓迎会が催されましたが、それを機に日本にパートナーズ(当時はCNEC)が設立されることになりました。それはフィンリー師の長い間の願いであったと伺っています。わたしはフィンリー師とは初対面でしたが、親しみ深く、気品に溢れた人格に引かれ、理事の一人に加わるようになりました。当初は、どのような活動から始めたらよいのか分かりませんでした。
 そのような時、アメリカ出張の折にサンノゼにあるのパートナーズの本部を訪ねました。フィンリー師は喜んで迎えて下さり「日本人は教育に熱心だからまず子供たちの学費援助から始めたらどうか」と勧めて下さいました。ルース夫人はSponsor A Childの責任者でしたので、西カリマンタンに住む子供達の写真を預かり帰国しました。理事会で賛同を得、SACが日本の活動の中心となりました。

フィンリー夫妻はその後何度か来日されましたが、わたしに「海外宣教に目を向けることは教会の伝道の活性化につながる」と言われたことがありました。わたしが理事長を引き受けたのもそのお言葉があったからです。
 フィンリー師が天に召された今、わたしたちはその遺志を少しでも引き継いでいきたいと思います。

 
(注)フィンリー師は2006年10月30日、天に召されました。76歳でした。

2006年11月15日水曜日

理事長就任にあたって

 

通信「巻頭言」第70号からの抜粋

最初の里子(女の子)
 援助している子供たちに会うため、西カリマンタンのポンティアナックに行ったのは、1986年のことでした。当時の通信(第3号、1986年9月)にも書きましたが、多くの中国人が内陸から避難民となってこの地に押し寄せ、湿地帯に家を建てて生活していました。電気も水道もなく、ランプと雨水を瓶に溜めて飲料水にしていました。子供たちが木で作られた通路で元気よく遊んでいましたが、小さな男の子のほとんどは裸でした。幼児が手を差し伸べてくるのですがお腹が大きかったり、皮膚病だったりで抱き上げるのに躊躇しました。帰路のシンガポールのホテルで、自分がいかに恵まれた生活を送っているかを知らされ、涙が止まりませんでした。今はそこに住む人たちの生活も随分改善されたことと思いますが、この経験がわたしのクリスチャン・パートナーズの活動の原点にあると思います。
 主イエスは「受けるよりは与える方が幸いである」と言われました(使徒20:35)。理事長として微力ながら皆様と共に尽力していきたいと思います。



訪問した当時のスライドを見ることができます。
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